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あおさんのブログ

こんにちは テアトル・エコーの青柳敦子です。「ぐるっぽ・ちょいす」というユニットで、舞台作品を作ります。ワークショップも開催します。人と人とのふれあいと、笑いを求めて今日も行く!! 一匹狼の演出家です。

   
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こちらはあの赤い実からは想像しがたい、ヒイラギの花です。
今あちこちで咲いています。銀モクセイのような花です。


さて、あなたは本当に怒った時、どんな反応をしますか?


怒った時は「怒る」に決まってるじゃん!
と思いがちですが、実はそうではありません。
人の反応は複雑です。

特に日本人は「怒る」という感情と、それを発露することにネガティブなイメージを持っているところがあるようで、ストレートにそれを表に出す人はあまり多くありません。


逆に「怒っているような」態度や表情を見せる時には、違う感情が深いところにある場合が多いと思っていただいた方がよいでしょう。

いわゆる「逆ギレ」がいい例です。
何かを指摘された。
それが自分には「イタイ」ところだったとか「図星」だったとか…
そうするとそこに「恥ずかしさ」や、それを認めたくない「虚栄心」が出てきたり
ともかく「負けたくない」とか「逃げ出してしまいたい」でも「それを悟られたくない」とか
いろいろ自分を傷つけないために、一瞬にして思考は沸騰します。

その結果選んだのが「キレて見せる」つまり「怒った」ような態度を取ること
それが逆ギレです。

本人にはそれなりに思考のつながりがありますから、さほど不自然さを意識していなかったりします。またその思考のスピードがあまりにも早いので、本人すら自覚していないこともあるでしょう。が、はたから見ていれば「それって逆ギレ」と一目瞭然です。


怒るって体力が要ります。
自分をも傷つける諸刃の刃のような側面もあります。
だから人は、本当に怒りを感じた時には、たいていそれ以外の気持ちや態度で怒りをオブラートにくるみます。
そしてそれが人それぞれ、とても個性に富んでいます。
それを分析するのは、演劇人としてとても面白い、だけどちょっと痛い作業です。


怒りを感じた時……
大声で笑ってしまう人
泣いてしまう人
黙ってしまう人
何でもないふりをしてしまう人
急に蓋をしたように無表情になる人
とても優しい丁寧な態度になる人

本当にいろいろです。
そして、怒りがあったことすら否定してしまう人もいます。


私の場合は
まず、言葉づかいがやたらと丁寧になるか、もしくは異常にフランクになります。
それで解決しないと自分の方が悪いと思い込もうとします。
相手を尊重して持ち上げなければと思い始めます。
それを越えると、体に震えが出たりするようになりますので、もう自分にもごまかしきれなくなってきます。
言葉もあまり選ばなくなって、客観的な事実でどんどん問題点を責めていくようになります。
どうもこの段階で、突然態度が変わったと思われるきらいがあるようです。(笑)
その説得が通じなければ、関係を切るしかないですね。限界です。
そして虚脱状態に落ち込みます。
エネルギーを使い果たすからなのか? それとも罪悪感からうつ状態になるのか?
いったい何の喪失感なのでしょうか?
そのあたりはまだ自分でもわかりません。
でも本当に身動きが取れなくなるほど落ち込みます。創造性ゼロの数週間、数か月です。


というわけで、ブログが滞っておりました……。
という遠大な言い訳でした。わっはっは!!

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6月、7月とブログの更新ができませんでした。

色々な思いがぐるぐると渦巻くばかりで、なかなか人様に読んでもらえるような形にまとまりませんでした。



ずっと仲良くさせていただいていた作家の唐沢伊万里さんが
去る7月2日午前2時47分に亡くなりましたました。
私よりも若かったのに…
作家としては「さあ、これから!!」という楽しみな時だったのに…


25年あまりの闘病生活の苦しみから、やっと解放されました…



それでも彼女は生きたかった……
もっともっと書きたかった……



体力が落ち、思うように会話ができなくなった頃
「この状況は作家として致命的」と、一生懸命言葉にしてくれた彼女
本当にどうやっても諦めなんかつかなかったろうと思います。



来年3月には、彼女とのお付き合いが始まるきっかけとなった作品『病院ミシュラン』が、10年の歳月を経て、ようやく初演されることになっています。

偶然ではありますが、同じ時期に、扶桑社さんから『病院ミシュラン』が電子書籍で出版されることも決まっています。



どちらもこんなタイミングを狙っていたわけでも何でもなのに
二つのことが「実現するよ!」というお知らせを耳に入れて間もなく
彼女は逝ってしまいました。



彼女が元気であれば、その『病院ミシュラン』も、今回のテアトル・エコーの公演用に、さらにリライトを加えていただく予定でおりました。

すでに具体的なアイデアも検討され
演出を担当する永井寛孝も「面白くなりそうだ!」と、作業を楽しみにしておりましたのに…

それもできずじまいでした。



「リライトできないということを
 自分に一生懸命納得させようとして
 ひどく苦労しているようですよ」

というお父様の言葉を聞いた時には、本当に胸が詰まりました。



そして7月2日
彼女は逝ってしまいました。



友人として、彼女のそばにいられたことを感謝します。
でも友人として、もっとそばにいてあげることはできなかったのかと、自問もしています。


唐沢さん、やっぱりあなたは私にとって「作家・唐沢伊万里」さんです。

冒頭に載せた写真は、先ごろ逝去したエコーの重鎮、納谷悟朗を偲ぶ会のことを書いた時と同じ、桃の花です。

唐沢さんは、エコーの委嘱作品『アラカン!』で納谷さんに声の出演をしてもらったことを、本当に「誇りに思っています」とフェイスブックに書き込んでおられました。


これは昔、演技のトレーニングを受けていたワークショップでのやり取りです。
ある芝居の解釈から話が派生して、民主主義の話になりました。

「日本では、民主主義はどのように習いますか?」
こう聞かれて、「どう習ったっけ?」と首をかしげる人もいたように記憶しています。

私の乏しい記憶では(社会科…嫌いだったんだなあ、あの頃…)、日本は選挙で選んだ代表が、国会に行って国の政治をします。だから「投票」が自分たちの意見を反映させるための最も重要な最高の権利です…というような習い方をしたと思い出しました。

  
こちらは総務省の「選挙の意義」を解説したサイトです。
ここにも
  日本は国民が主権を持つ民主主義国家です。
  選挙は、私たち国民が政治に参加し、主権者としてその意思を政治に反映させることのできる
  最も重要かつ基本的な機会です。
とあります。

中学校1年生の教室、社会科の授業。
窓側の席の後ろから二番目あたりに座った自分の姿までよみがえりました。
「そうか、投票で参加するのか!」という、ちょっと大人になることへの背伸び感を持ったのを思い出しました。
と同時に「そうか、間接的な参加なのか」ということにネガティブなイメージが湧いたことも思い出しました。


ところが、アメリカでの彼女の話は、私たちの体験とは全く違いました。
裏付けはとっていませんが、アメリカ人である彼女の体験談としてリアリティを持って聞きました。

まだ、インターネットも、携帯電話もない時代のお話です。
アメリカの小学生が、政治と自分とのかかわりを始めて勉強するとき、どうするか?

答えはこうです……

生徒たちは、コインを渡されて、公衆電話からホワイトハウスに電話をかける。
ホワイトハウスには国民が大統領と話したい時に必ずつながるホットラインがあって、そこに掛ければ大統領と直接話すチャンスがあるんです。

子どもたちは、自分でダイヤルしてホワイトハウスに電話をします。
そして直接、大統領と話をします。
自分の声に大統領が耳を傾けてくれる、そして答えてくれる。
これが、民主主義の真ん中に国民があり、自分たちの声は大統領まで届き、さらには自分たちの声には、彼らを「動かす力」がある、ということを学ぶのです。


ショックでした。
彼女の体験談と比べて、私たちの体験の、なんという距離感の差、実感の差でしょう!?
その時の衝撃の大きさを今も忘れることができません。

私たちは民主主義の基本を習ったようでいて、実際には政治との距離の遠さを習ったのではないかとすら思いました。

アメリカと日本では、基本的なシステムの違いがあるので、一概に善し悪しを言うことはできませんが、でも「実感」が伴うかどうかという差は、とても大きなポイントだと思います。そしてそれは政治だけではなく、あらゆるコミュニケーションの基本、モチベーションの源泉なのだと思うのです。

自分の意志や思いが誰かに届けばいいのにと思ったとき、どう行動を起こし、どんな風に相手に働きかけ、どんな情報を渡せばいいか?
そのトレーニングを、今私たちは積極的にしているのだろうか? してきたのだろうか?

そこに自信を持って「イエス」と答えられないというのは、非常に恐ろしいことだと思います。
今からでも遅くはないから!
そう信じて動き出したい。動き続けたい。動かしていかなければいけない。
そう感じるような事に、なぜだかたくさん出会う今日この頃です。


ちょっと前の話になりますが……

グアムに旅行に行った時のことです。

毎週ウィークエンドに開催されている「デデドの朝市」というのに行ってまいりました。

とてもローカル色豊かな朝市で
もちろんこれが目当ての観光客もたくさん来ているのですが、地元の方が本当にお買い物に押し掛けている、その雰囲気がたまらなく楽しいのでございました。

地元の方が食するであろう、見なれない野菜やフルーツ、多分食べるのであろう生きた魚や家畜、バナナのちまきやココナッツのお菓子、チャモロ風BBQといったものから、Tシャツ、タオルや下着、おもちゃや民芸品などなどなどなど、色々なものが、雑然と並べられていて、それはそれはにぎやかに売り買いされておりました。

ホテルが立ち並ぶエリアでは、英語が話せなくてもほとんど苦労はしませんが、ここでは話が違います。みんな一生懸命、身振り手振りにありったけの英語を交えて値切り交渉??をしていました。(笑)

さて、この朝市に、キッチンカーをバーンと入れて、ひときわ長い行列を作っているお店がありました。
あたたかい料理をランチボックスやプレートにしてくれるお店で、その「迷惑」に出会いました。
キッチンカーのボディには、料理の写真と一緒に日本語の解説まで加えてありました。

それがこれです。



初めは、意味がわからず、しばらく貼り出してあったメニューとにらめっこをしていたのですが……

  ここんところに……見えますか?
  はっきりと……「迷惑」……

そのうちハタと気がつきました!!

「迷惑」とは…この事だったんです!!

  SPAM……つまり……スパム……迷惑……

あの「スパム・メール」のスパムです。
その「SPAM」とスペルがおんなじもんだから、直訳しちゃうと……「迷惑」……

おいおい!! いつからこれ掲げてるんですか……??
そして誰も気がついてないんですかあ~??
教えてあげようよ~!!

もしや、ウケ狙い!!??

うーん、こんな高度な洒落を思いつくなんて、相当いい翻訳センスだぞ~

…というのが、グアムで出会った「迷惑」のお話の一部始終でした。
そして私たちも、お店の方に「間違ってますよ」なんて伝えることもせず、爆笑だけして帰ってきてしまいました。。。。。

もしどなたか、グアム島はデデドの朝市に行くチャンスがある方がいらっしゃいましたら、このメニューが今でも健在かどうか、是非レポートしてくださいませ!!


先日ちょっとおもしろいことがありました。

実はあるお薬の副作用に関することなのですが…
咳止め、風邪薬として、処方される事が多いというこのお薬。

  フラべリック錠 (ファイザー製薬)です。

この薬を飲むと、聴覚障害を起こすことがあるそうです。
と言うと、非常にものものしく聞こえますが、服用中と服用後の一時期「音が低く聞こえる」という変化が見られるのだそうです。

この副作用、製薬会社も認め、近年説明書にもきちんと掲載されるようになっています。

私が見つけた面白いことと言うのは、直接副作用を告発するようなたぐいのものではありません。
その副作用を感じる人と、感じない人との間に生まれた「認識の差」とでもいうようなものに、とても興味深いことを見つけたのでございます。

それが、タイトルにも書きました、知らないことは「ないこと」のように感じる、人の思い込み(自己正当化かな?)の思考パターンです。

この副作用は、つい数年前までは公には認知されていませんでした。
患者さんが「音がおかしい」とお医者さんに訴えても「そんな症例も、副作用の記録もありませんねえ」で済まされてきてしまっていたようです。

なぜ、認知が遅れたのか?

それは、この副作用をキャッチできるのが、絶対音感を持った人たちだけだからです。

普通は、周囲の音がちょっと低めに聞こえたところでたいした事件ではありません。
また、人の声がちょっと低く聞こえるぐらいなら、「今日はテンション低いのかなあ?」ぐらいで済まされるかもしれません。

しかし、絶対音感のある人にとっては、玄関のチャイム、目覚まし時計、聞きなれた音楽、などなど、周囲にあふれるあらゆる音が微妙にいつもと違うピッチで聞こえてくるというのはとても嫌な違和感があるものなんです。
本当に気持ち悪いです。

大多数の人が感じない、つまりある種のマイノリティだけが感受する症状だったこと、そして、Twitter のような、情報の発信とスピーディーな集約を可能にするようなネットワークが、つい最近まで存在しなかったこと、こうした理由のせいでこの副作用は報告されることがなかったのではないでしょうか。

でも症状はあった。ずっとあったはずです。

ここで私が興味を持った一言が登場します。

症状を感じた人たちのツイートに応える形で、製薬会社の方が、副作用として認定するまでに「情報の集積が」必要だったことを伝え、丁寧な文面で「ご迷惑をかけたことへのお詫び」をツイートしていたのですが、そこにこんな一言がありました。

皆様の「音」に関する感覚がここ30年で飛躍的にあがっているのではないかと思います。

この一言に「ムムッ??」と思いました。

音感が飛躍的に上がっている???
ここからは私の想像、確かなデータのない部分でもありますので、説得力にはちょっと乏しいのですが…
絶対音感の持ち主が、飛躍的に増えているなんていうことはないんじゃないかと思います。
もしそうなら、音大を受験してくるような人の「絶対音感率」なんて、もっと感動的に上がっていてもいいはずですが、そんなことは起きていません。

じゃあ何が起こっているのか??

発言の主の周囲に、それを主張する必要のある人がいなかったというだけのことではないでしょうか?

30年前、絶対音感という言葉は、まだそんなに「誰でもが使う言葉」ではありませんでした。
でもそれと、絶対音感を持っていた人が少なかったということとは全く違う話です。

私の母は、昭和ひとけた生まれで、本人も全く認識していませんが、絶対音感の持ち主です。
小学校のピアノをちょうど調律した後に父兄会に行ったりして「あら先生、ピアノ調律しました?」なんて聞いて音楽の先生をびっくりさせたこともありました。
でも音楽的な素養はなし!
楽器の演奏もしませんし、カラオケなんて行ったこともないと思います。
それでも絶対音感は彼女の中にあります。確かにあります。

彼女は「知らない」。だけど絶対音感が「ない」わけじゃない。
同じように、ツイートの主の周りには、絶対音感がある人が「見えなかった」。
でもそれは、そういう人が「いない」と言うこととイコールじゃない。

たまたまTwitter で同じ症状を訴える人がつながることができた。
すると同じ症例が、ダダーっと列をなして「見えて」くる。
でもそれは、今「出てきた」わけじゃない。

それを「皆様の聴覚が飛躍的にあがってきた」というふうにくくられると、絶対音感ありの人生を送ってきた者として、非常に「違うんじゃないかあ!!?」と言いたくなるわけでございます。

人間だれでも自分を中心にした物差しで世の中を見ていると思います。
自分のまわりにたくさん情報があるもの、自分が興味を持って情報を集めているものはちゃんと「ある」と認識するけれど、そうではないものは視界になかなか入らない。それを「ないもの」と決めてかかるのは非常に危険なのだなあ……と感慨深くかみしめておりました。

自分の物差し。
自分の常識。
自分のテリトリー。
その外側にももっと大きな世界があることを、忘れないように、肝に銘じておかなくちゃ!!
そう思ったエピソードでした。


   
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