あおさんのブログ
こんにちは テアトル・エコーの青柳敦子です。「ぐるっぽ・ちょいす」というユニットで、舞台作品を作ります。ワークショップも開催します。人と人とのふれあいと、笑いを求めて今日も行く!! 一匹狼の演出家です。
- 2024/11/22 (Fri)
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- 2012/07/24 (Tue)
最近思うこと その2 疑えばオリジナルなのに…
最近、ワークショップのインストラクターをやっていて発見したことは、みんな「疑い方」を知らないんだ! ということです。
例えば、ある小説や童話、戯曲を読み解こうとするとき、その作品の「あとがき」に何か書いてあると、まずそれを鵜呑みにして疑わない。
無理をしてでもそれを礎にして作品解釈を成り立たせようとする。
それから、参考資料にする文献にしても、インターネットや本に書いてあることをほんとにそのまま真実だと思ってしまう。
大学の卒論なんかでも「wikipwdia」の情報をそのまま引用したりすることが問題になっていましたね。
あとは、作品中に書いてあることが、言葉として知っていることだと、もう疑わない。
仮に調べても、一義的な意味が分かったところで、深く調べずに満足してしまう傾向も見受けられる。
とても残念なことです。
「なぜ?」は本当にミラクル・ワードだと思います。
「どうしてだろう?」という興味は「わかりたい!」という欲求になります。
その欲求が強ければ強いほど、たくさんのことを調べるでしょう。
ある時は文字を通して。
ある時には実験や実習を通して。
さらにある時には取材やディスカッションを通して。
そうして手に入れた結果は、そのプロセスも含めて、その人のオリジナルなものになるはずです。
そのことがとても貴重なことですよね。
例えば……「リンゴは赤いです」という文章を見て、「本当にそうかな?」「どうしてだろう?」と、あえて「ハテナ?」をつけてみる。そこから旅が始まるわけですよね。
きっとある人は「リンゴの果実は、若いときには緑色だ。皮をむけば白い。なのに赤いという言葉でひとくくりにしていいのかな?」と思うかもしれません。
別のある人は「どうして人間の目には『赤い』と映るんだろう?」と思うかもしれませんし、「何がこの実を赤くしているんだろう?」と思う人もあるかもしれません。
そしてそれぞれの出発点からそれぞれのルートをたどって、結果的に元の通り「リンゴはやはり赤かった」という答えに行きついたとしても、その答えが持つ意味は、限りないオリジナリティが含まれた、ユニークなものになっていると思うのです。
そうそう、何かに意見を求めた時に「私も、〇〇さんと同じなんですけど」とか「先に言われちゃったんですけど」といって自分の意見を簡略化して話そうとする傾向もありますね。
これももったいない。
「同じでも、あなたの意見をあなたの言葉で話してください!」と促すことになるのですが……。
たとえ同じ言葉を思い浮かべていても、同じ選択肢を選んでいても、あの人の答えと、わたしの答えは、同じじゃない!
そのことの大切さにもっと気づいてほしい! そう思います。
そしてその違いをシェアしあい、お互いの違いを受け入れあって初めて、コミュニケーションへの努力が始まるのだと思います。
他人と付き合うのは簡単じゃない。知恵もエネルギーもいる。そのためには「疑問」と「興味」を持ってほしい。
動いてほしい。そしてユニークなもの、たった一つのものにたどり着いてほしい。そう思う。
さらに、自分もそうあらねば!! あり続けなければ!! と思うのでございます。
例えば、ある小説や童話、戯曲を読み解こうとするとき、その作品の「あとがき」に何か書いてあると、まずそれを鵜呑みにして疑わない。
無理をしてでもそれを礎にして作品解釈を成り立たせようとする。
それから、参考資料にする文献にしても、インターネットや本に書いてあることをほんとにそのまま真実だと思ってしまう。
大学の卒論なんかでも「wikipwdia」の情報をそのまま引用したりすることが問題になっていましたね。
あとは、作品中に書いてあることが、言葉として知っていることだと、もう疑わない。
仮に調べても、一義的な意味が分かったところで、深く調べずに満足してしまう傾向も見受けられる。
とても残念なことです。
「なぜ?」は本当にミラクル・ワードだと思います。
「どうしてだろう?」という興味は「わかりたい!」という欲求になります。
その欲求が強ければ強いほど、たくさんのことを調べるでしょう。
ある時は文字を通して。
ある時には実験や実習を通して。
さらにある時には取材やディスカッションを通して。
そうして手に入れた結果は、そのプロセスも含めて、その人のオリジナルなものになるはずです。
そのことがとても貴重なことですよね。
例えば……「リンゴは赤いです」という文章を見て、「本当にそうかな?」「どうしてだろう?」と、あえて「ハテナ?」をつけてみる。そこから旅が始まるわけですよね。
きっとある人は「リンゴの果実は、若いときには緑色だ。皮をむけば白い。なのに赤いという言葉でひとくくりにしていいのかな?」と思うかもしれません。
別のある人は「どうして人間の目には『赤い』と映るんだろう?」と思うかもしれませんし、「何がこの実を赤くしているんだろう?」と思う人もあるかもしれません。
そしてそれぞれの出発点からそれぞれのルートをたどって、結果的に元の通り「リンゴはやはり赤かった」という答えに行きついたとしても、その答えが持つ意味は、限りないオリジナリティが含まれた、ユニークなものになっていると思うのです。
そうそう、何かに意見を求めた時に「私も、〇〇さんと同じなんですけど」とか「先に言われちゃったんですけど」といって自分の意見を簡略化して話そうとする傾向もありますね。
これももったいない。
「同じでも、あなたの意見をあなたの言葉で話してください!」と促すことになるのですが……。
たとえ同じ言葉を思い浮かべていても、同じ選択肢を選んでいても、あの人の答えと、わたしの答えは、同じじゃない!
そのことの大切さにもっと気づいてほしい! そう思います。
そしてその違いをシェアしあい、お互いの違いを受け入れあって初めて、コミュニケーションへの努力が始まるのだと思います。
他人と付き合うのは簡単じゃない。知恵もエネルギーもいる。そのためには「疑問」と「興味」を持ってほしい。
動いてほしい。そしてユニークなもの、たった一つのものにたどり着いてほしい。そう思う。
さらに、自分もそうあらねば!! あり続けなければ!! と思うのでございます。
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Comments
ていうかねー
で、内容が違うかって言われると「おしのけるほど違う意見なのか?」だったんですが。
あまり毎回だとなんかそれはそれで形骸化しちゃっててなんだかなーという感じでした。
オリジナリティーを持ちたいと思うのはけっこうだけど、とりあえず「そうですね」とやわらかく受け止めてから自分の意見を展開していこうよと思いました。
まあ、単に口癖なのかもしれないですが。
Re:ていうかねー
本当にそうだと思います。
相手の意見をまず聞く、認めるっていうことは会話をポジティブに進めていく上でとても大切。その通りだと思います。でもそれはちゃんと自分の意見や切り口のある人の話……
今回思ったのは、それ以前のお話。
稽古に来る前に、どれだけ準備してきたの?
自分のアイデアに、どのくらいの後ろ盾、積み上げがあるの?
なぜ、その程度しか準備してこられないの? 調べてきてくれないの?
という疑問が浮かぶことが、いろんな場所でたくさんあったのですが、その原因が、実は「調べるためのひっかかり」を自分で見つける癖がついていないということだったんだ!!と、つい最近気が付いたのですよ。
「完全なオリジナリティなど存在しない」といったのは誰でしたっけ?
オリジナリティなんていうものが、そうおいそれと手に入るものではないことは百も承知です。でもそれをまったく目指さずに、半端な印象や好み、ただの想像や先入観で作品について語られても、そこで共有できるものは非常に乏しいと思うのですよ。
作家は死に物狂いで調べるでしょ? 演出家も翻訳家も、やはりそういう作業を強いられるポジションだと思います。たぶんみんなある程度はやってると思う。
表現者として、作家、翻訳家、演出家、そして俳優が互いに対等な立場に立つとしたら、俳優も同じように準備しなければ、同じ土俵には上がれないはず。最低限それを目指そうよ、というお話でした。