あおさんのブログ
こんにちは テアトル・エコーの青柳敦子です。「ぐるっぽ・ちょいす」というユニットで、舞台作品を作ります。ワークショップも開催します。人と人とのふれあいと、笑いを求めて今日も行く!! 一匹狼の演出家です。
- 2024/11/22 (Fri)
[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
- 2012/05/21 (Mon)
『チロルの秋』と岸田國士、そして私たち
岸田國士のごくごく初期の作品『チロルの秋』
そのリーディング上演に挑んでいます。
南青山MANDALAというライブハウスが主催する、シリーズ企画「岸田國士を読む」の1本を担当させていただいています。
チラシもできてきました。
イベント4日間の共通チラシなので、とても賑やかです!!
私たちの本番は5月31日(木)のマチネとソワレの二回限り……。
さて、この『チロルの秋』という作品はとても独特の雰囲気を持っています。
まるで詩のように短く改行された台詞……
イタリアとオーストリアの国境にほど近いチロルの山村という設定……
「夢で愛し合いましょう」的なファンタジックなやりとり……
リリカルともセンチメンタルともロマンティックとも捕らえられているらしいこの作品に、今、是非とも上演したい理由を……岸田國士の思いを見つけたように思います。
岸田國士という作家は、大正から昭和にかけて、日本の新劇界の礎を構築し、その活動を牽引してきた人の一人です。
そして、童話作家の故・岸田衿子さんのお父さま。また、あの「大奥」のナレーションや「ムーミン」の声でおなじみの故・岸田今日子さんのお父さま。
そう言うと身近に感じていただけるでしょうか?
芸能一家だった岸田家……なのかと思いきや……
岸田國士は、陸軍のおエライさんの息子さんで、自身も幼年士官学校を経て陸軍士官学校を卒業し、久留米で陸軍少尉として働いたこともある人だそうです。
そして、軍人生活に嫌気がさし(言葉が軽くてすみません)、肺病を理由に退役。父の意向に完全に背き、東大の仏文科を経てフランスに遊学。文学の道に入っていったのだそうです。
さてさて、ここらかが本題です。
そんな岸田國士が、この『チロルの秋』を発表したのは1924年の秋。
あの関東大震災からちょうど1年がたった頃です。
一方で『チロルの秋』は1920年の晩秋が舞台、という設定になっています。
それは第1次世界大戦が終戦を迎えてから2年後。まだ戦後処理も生々しく進められているころです。岸田國士自身も、オーストリアとイタリアの国境を画定する委員会の通訳として、この戦後処理の現場に関わっていたそうです。
他にも、この作品の周囲には、いくつかの生と死に直面した岸田國士の人生の事件が見えてきました。
世界が初めて体験した「国家総力戦」。それによって桁違いに多くの死者を出した大戦。
その戦後処理にかかわった体験。
また、岸田國士が遊学先のフランスから帰国するきっかけとなった、父親の死。
父親とは、軍隊をやめたことなどがもとで勘当状態になっていたそうです。
さらに帰国後まもなく襲われた関東大震災。
彼自身も東京で被災したそうです。
多くの人の死の記憶と、復興にむけての熱を帯びたアクションが周囲に満ち溢れる中で、この作品は生まれたことになります。
芝居に登場するのは二人の男女。
亡くなった夫への愛と悲しみにひきこもろうとする女性。
生き残った者として、未来を見つめてゆきたい青年。
そしてそのどちらの体内にも、生きてゆくということと、愛の情熱は息づき続けています。それを無視してしまうことなど、誰にもできるものではありません。
岸田國士は、『チロルの秋』を通してそうした「生」の姿を、生々しく映し取ろうとしたのではないでしょうか。
ちょうど今、私たちが東北の大震災について語ろうとしても、どうしても言葉少なになってしまうように、当時の岸田自身の中にも言葉にできない思いが渦巻いていたのではないかと想像しています。
「詩的」と受け取られがちな、この戯曲の特殊な文体が、そうした思いの集積だと思って見ると、そこに思いもかけないほど深くてリアルな「人」の営みが見えてくるように思うのです。
いま、このタイミングでこの作品にふれることができる。
その事実が、ひときわ大きく繊細なものとして、私たちに沁み入ってきます。
いま、このタイミングでこの作品を上演する。(リーディングではありますが…)
その意味と意義を、大切に、大切に、作品を仕上げたいと思っています。
そのリーディング上演に挑んでいます。
南青山MANDALAというライブハウスが主催する、シリーズ企画「岸田國士を読む」の1本を担当させていただいています。
チラシもできてきました。
イベント4日間の共通チラシなので、とても賑やかです!!
私たちの本番は5月31日(木)のマチネとソワレの二回限り……。
さて、この『チロルの秋』という作品はとても独特の雰囲気を持っています。
まるで詩のように短く改行された台詞……
イタリアとオーストリアの国境にほど近いチロルの山村という設定……
「夢で愛し合いましょう」的なファンタジックなやりとり……
リリカルともセンチメンタルともロマンティックとも捕らえられているらしいこの作品に、今、是非とも上演したい理由を……岸田國士の思いを見つけたように思います。
岸田國士という作家は、大正から昭和にかけて、日本の新劇界の礎を構築し、その活動を牽引してきた人の一人です。
そして、童話作家の故・岸田衿子さんのお父さま。また、あの「大奥」のナレーションや「ムーミン」の声でおなじみの故・岸田今日子さんのお父さま。
そう言うと身近に感じていただけるでしょうか?
芸能一家だった岸田家……なのかと思いきや……
岸田國士は、陸軍のおエライさんの息子さんで、自身も幼年士官学校を経て陸軍士官学校を卒業し、久留米で陸軍少尉として働いたこともある人だそうです。
そして、軍人生活に嫌気がさし(言葉が軽くてすみません)、肺病を理由に退役。父の意向に完全に背き、東大の仏文科を経てフランスに遊学。文学の道に入っていったのだそうです。
さてさて、ここらかが本題です。
そんな岸田國士が、この『チロルの秋』を発表したのは1924年の秋。
あの関東大震災からちょうど1年がたった頃です。
一方で『チロルの秋』は1920年の晩秋が舞台、という設定になっています。
それは第1次世界大戦が終戦を迎えてから2年後。まだ戦後処理も生々しく進められているころです。岸田國士自身も、オーストリアとイタリアの国境を画定する委員会の通訳として、この戦後処理の現場に関わっていたそうです。
他にも、この作品の周囲には、いくつかの生と死に直面した岸田國士の人生の事件が見えてきました。
世界が初めて体験した「国家総力戦」。それによって桁違いに多くの死者を出した大戦。
その戦後処理にかかわった体験。
また、岸田國士が遊学先のフランスから帰国するきっかけとなった、父親の死。
父親とは、軍隊をやめたことなどがもとで勘当状態になっていたそうです。
さらに帰国後まもなく襲われた関東大震災。
彼自身も東京で被災したそうです。
多くの人の死の記憶と、復興にむけての熱を帯びたアクションが周囲に満ち溢れる中で、この作品は生まれたことになります。
芝居に登場するのは二人の男女。
亡くなった夫への愛と悲しみにひきこもろうとする女性。
生き残った者として、未来を見つめてゆきたい青年。
そしてそのどちらの体内にも、生きてゆくということと、愛の情熱は息づき続けています。それを無視してしまうことなど、誰にもできるものではありません。
岸田國士は、『チロルの秋』を通してそうした「生」の姿を、生々しく映し取ろうとしたのではないでしょうか。
ちょうど今、私たちが東北の大震災について語ろうとしても、どうしても言葉少なになってしまうように、当時の岸田自身の中にも言葉にできない思いが渦巻いていたのではないかと想像しています。
「詩的」と受け取られがちな、この戯曲の特殊な文体が、そうした思いの集積だと思って見ると、そこに思いもかけないほど深くてリアルな「人」の営みが見えてくるように思うのです。
いま、このタイミングでこの作品にふれることができる。
その事実が、ひときわ大きく繊細なものとして、私たちに沁み入ってきます。
いま、このタイミングでこの作品を上演する。(リーディングではありますが…)
その意味と意義を、大切に、大切に、作品を仕上げたいと思っています。
PR
Comments